About Me

夏はジェラート、秋冬はチョコレートが主食。近年かき氷と鯛焼きに覚醒。乳製品と卵はOKのラクト・オボ・ベジタリアン。下戸。基本ネコには好かれる。SFとミステリーと時代小説を読み、1970年代のプログレを聴く。

1960年台初頭生まれの神谷隆は「新しもの好き」です。まだ新しいがゆえに世に知られていないものを知らせるのが好きです。これを使えば世の中はこんなに変わるよ!と。1988年にMacを自費で購入し、PageMakerとIllustratorでDTPを始めました。その後Macromedia Directorでマルチメディアタイトルを作り、SuperMac VideoSpigotでデジタルビデオ編集を始めました。1990年代中頃からWebサイト構築に着手し、2000年初頭からはWebサイトのアクセシビリティやユーザビリティ向上まで仕事の領域を広げています。
2010年頃からはしばらく離れていた制作(プロダクション)をメイン業務にしていましたが、自分に向いているのはその前段階の「プリプロダクション」だと再認識し、仕事をそちらへシフト中です。

Contact Details

神谷 隆 (Takashi Kamiya)
東京都三鷹市に在住

tkamiya@gmail.com

教育

機械工学を学ぶ

スイカ畑のスプリンクラーに囲まれた大学 1980年代初め

高校までを福島県郡山市で過ごし、隣県の国立大学工学部機械科に進学。時代はメカニクスとエレクトロニクスを融合させた「メカトロニクス」へと向かっていました。夏休みに会津オリンパスで内視鏡を製造するラインの工員としてアルバイトを経験。もしかするとみなさんは私が30年前に先端部を削った胃カメラを飲んだことがあるかもしれません。ノーバート・ウィーナーによって提唱された「サイバネティックス」に魅せられたりもしましたが、学業半ばで大学を中退し、東京へ出ます。

仕事

アナログビデオ時代

富ケ谷 1980年代

東京に出てすぐに『月光仮面』や『怪傑ハリマオ』、『シルバー仮面』等の監督である田村正蔵に従事。当時急激に市場が拡大しつつあった民生用ビデオ作品の製造をメインに、映像編集の基礎を学びました。ほぼ一日中オープンリール型1インチVTR「SONY BVH-2000」と向かい合う毎日でしたが、簡易編集にはUマチック(3/4インチ)もよく使いました。
1987年にMacintosh Plusに出会い、瞬時に魅入られ、翌年自費で80万円のMacintosh SEを購入。会社の業務にMacを導入できないかトライするも当時の状況では時期尚早と判断し退社。知人と制作会社を始めました。

デスクトップパブリッシング時代

恵比寿/千駄ヶ谷/江戸川橋 1989-1992

時代はAldus PageMakerとAdobe Illustratorを使った「DTP黎明期」でした。初めは文字のみを写植の代わりに印画紙出力してレイアウト台紙に貼り付けていた擬似DTPも、イメージセッターやスキャナの高性能化とQuarkXPressの登場でカラー分版が可能になり、雑誌広告やポスター作成などでDTPを実践しました。
またこの時期、加賀電子が江戸川橋にオープンしたMacintoshのショールーム「アップルセンター江戸川橋」の立ち上げに参画し、一年間サポートスタッフとして印刷業界のお客さまのお手伝いとDTPの啓蒙に努めました。
紙媒体の仕事ではMacintoshを使っていましたが、Amiga 2000とVideo Toasterでもよく遊んでいました。Video Toasterの持つ「映像の力」は圧倒的で、当時のMacの遥か先を行ってました。

マルチメディア時代

水道橋 1992-1993

アップル社からQuickTime 1.0が出た時に、これからはコンピュータを使った映像制作が主流になると考え、インタラクティブなマルチメディアタイトル作りを始めました。レーザーディスクやHi-8ビデオをHyperCardからコントロールするコンペ用プレゼンシステムを大林組と作ったのもこの頃です。大林組のトンネル班にくっついて、関西や九州のトンネル掘削現場を見学させてもらったのは楽しい体験でした。

デジタルビデオからウェブ構築へ

本郷 1994-1995

DTP時代のクライアントが日本初のMac用JPEG圧縮伸長ビデオ編集カード「DeskStudio」を開発し、サポートを担当することになりました。デジタルビデオの世界は進化のスピードが速く、エキサイティングな毎日でした。
そんな中、東大生のアルバイト、堀江貴文君が入ってきました。DeskStudioのサポートは落ち着いてきたので、堀江君たちと机を並べてウェブサイト構築の請負仕事を始めました。デザイナーを雇う余裕は当初無かったので、私がグラフィックパーツを作り、堀江君がHTMLをコーディングしました。日本ではWeb専業の制作会社はまだ無かったし、紙媒体やテレビ向けの制作会社はインターネットの特性を分かっていなかったので、数名のチームにもかかわらず名だたる企業から仕事が入るようになりました。
アップル社の開発者向けネットワーク「AppleLink」と「eWorld」の運用を請け負っていたのもこの頃ですし、歌舞伎役者市村萬次郎さんと出会って世界初の歌舞伎ウェブサイト「Kabuki for Everyone」を公開したのもこの時期です。
堀江君がインターネットの可能性/将来性を見抜いていたのに対し、わたしは1990年代中頃のウェブページでの表現の限界が大いに不満でした。VRMLとかリッチメディアという言葉が頭を離れなくなり、ほどなくウェブチームを離れます。

フェローの肩書きとハウステンボス

外苑前/佐世保 1996-1997

リッチメディアを実現するにはお金がかかります。SGIのワークステーションにインストールした3DCGツール「Prisms(Houdiniの前身)」や「Alias PowerAnimator(Mayaの前身)」を必死で勉強しましたが、肝心のリッチメディア市場がなかなか成長しません。インターネット自体もまだモデムを使ったダイアルアップ接続が主流だったので、今考えれば無理もありません。
情報通信研究機構(NICT)の前身である通信放送機構(TAO)から仕事をいただいたのはそんな時でした。ハウステンボスに隣接する佐世保リーサーチセンターで動画配信の研究と実証実験を行うプロジェクトで、わたしの身分はコンテンツ系の「フェロー」という大げさなものでした(笑)。月イチで佐世保に出張し、会議に参加しました。
TAOでの研究が終了した後に、ハウステンボスさんからコンサルティングの仕事をいただき、ウェブサイト構築のお手伝いをしました。ハウステンボス最初のホームページを公開する直前に合宿をして苦楽を共にした当時のチームのみんなは、今でも大切な友人です。また、大晦日にハウステンボスで行われるカウントダウンショーにわたしの作った映像を二度使っていただきました。特にカウントダウンショーを世界に生中継した最初の時は、自分の作った映像がたった今、世界中に流れているのか!と興奮したことを覚えています。ちなみにこの時の映像はLightWave 3Dで作ったフライスルームービーで、キラキラ輝く光が地球を目指し高速接近、地球を半周して大晦日の日本列島上空を駆け巡り長崎上空から下降、20世紀フォックス風にサーチライトが交差するドムトールンに舞い降りるストーリーでした。大晦日直前まで作業して2400枚ほどの静止画を連番レンダリングし、ハウステンボスのAvid Media Composerで繋げて音楽と合わせました。

ワイドなプロジェクト

渋谷/用賀 1997-2010

もう30年近く続いている「WIDEプロジェクト」というお化けプロジェクトがあります。日本のインターネットの父、SFCの村井純氏を中心に産官学の数百名の研究者が活動するプロジェクトで、その活動の成果は私たちの生活の確固たるインフラとして機能しています。1990年代後半から2010年までは、このプロジェクトとプロジェクト周辺の仕事をしていました。研究者への取材や広報的な映像制作のほか、仕事内容は多岐にわたりました。
WIDEプロジェクトと直接関係ない仕事としては、Webサイトのアクセシビリティやユーザビリティのテストがあります。自身の経験を元にしたヒューリスティック調査の他に、ECサイトでのユーザーの行動を動画で記録し分析する手法を独自に作り上げました。検証サービスと改善提案は今となっては全く驚かれませんが、2000年代初頭ではクライアントにとって大変インパクトがあったようです。
映像系では、お付き合いのある会社が展示会などのイベントで流す数十秒のアタックビデオをよく作りました。「オン・ザ・エッジ(後のライブドア)」がマザーズに上場する際の、株主向け会社紹介ビデオの制作もよく憶えています。六本木から引っ越したばかりの渋谷並木橋のオフィスで堀江君にインタビューしました。長尺物としては奈良の某大学院大学の学生さん向けに作った、国際学会で英語で論文発表する際のノウハウビデオが思い出深いです。渋谷のスタジオに声優レニー・ハートさんに来てもらってナレーションを撮った日は、巻き舌のアメリカのおばちゃんの元気とプロフェッショナルな仕事に終始圧倒されっぱなしでした。
また2000年ごろからは、当時まだ一般的ではなかったDVDオーサリングも始めています。ドイツのAstare社の「DVDirector Pro」というMPEGエンコーダーカードを含む制作環境を、クラアントが日本の代理店として扱いはじめたのがきっかけでした。Photoshopのレイヤーがそのまま読み込めるグラフィカルなオーサリング画面は、当時のデファクトスタンダード「Scenarist」にはないものでした。Astarteがアップルに買収されて、DVDirector Proが「DVD Studio Pro」として出てきたときは驚きました。

原点に戻る

秋葉原 2011-2015

2011年3月11日の少し前から、秋葉原の商社系の会社のお手伝いをしていました。あの日この会社が入居していた最先端の免震ビルは揺れに揺れて、しばらくのあいだ船酔いのような症状で苦しみました。
その後しばらくアップル社とアドビ社の製品を学生さんに販売するための各種販促ツールを作る毎日が続き、DTPを始めた20数年前に戻ったような日々でした。またいくつかの業務用/教育機関向けiPadアプリを世に出すお手伝いをしています。

再出発

三鷹 2015-

2015年からは何度目かのフリーランスとして案件ベースで動いています。ここ数年は放送局向け大規模映像編集システムの運用サポートを請け負ったりもしていますが、Webサービス関連、モバイルアプリ関連、映像制作関連、企画/提案から検証/サポートまで、私で何かお役に立てることがあれば、お気軽に連絡ください。

tkamiya@gmail.com

スキル

神谷が使う制作ツールのスキルは大体こんな感じ。HTMLはちょっとした修正くらいなら未だにテキストエディタで手打ちしてます。このページも。未知の新しいソフトウェアを修得するスピードは、我ながら結構速いんじゃないかと自負しています。

  • Keynote
  • Illustrator
  • Photoshop
  • Final Cut Pro 7
  • Dreamweaver
  • MacroMind VideoWorks (1988)

Testimonialとは言えないけど

  • 夜は大学時代のバイト先だった会社の人達と久々の再会。てか、神谷さんとか、全然変わってねー(笑)いろいろな人達の消息からバイト時代の思い出話、最近のアップル回りの話とかいろいろと。特に神谷さんからは、Human Interface Guidelinesとか教えてもらったり、フォトショップとかの使い方教えてもらったりしたんだよなあ… 今考えると当時の最先端の人達が集まっていた贅沢な環境。CodeWarriorっていうMacの開発環境のサポートとかやってる人が隣にいたりしたんだもんな…

    2014年1月 - 『堀江貴文のブログでは言えない話』より